昭和42年11月12日 朝の御理解
日々信心の稽古を、こうしてさせて頂いておりますと、その一日の信心の稽古と言うか、信心生活というものが、今日は神様がここんところを教えて下さった。今日は神様がここのところを分からせて下さったと、いうものが日々蓄積されていって、私くし初めて信心の稽古と言う事が言えるのだと思うのです。又は日々でなくても一つの問題を通して、その問題はぁ困った問題だとこう思うておったけれども。
その困ったと思うておったその問題を通して、こう言う事が分かった。こういう神様の深い思し召しを感得させて頂いたと言うところに、信心の稽古の焦点というのが、置かれていかなきゃならんと思うですね。どうでしょうか日々そこのところが、出来ていっておるでしょうか。昨夜の御祈念に、久留米の佐田さんたちが夫婦で、お参りしておりました。この度いわゆる明日の、筑水連合会の親和会に。
婦人部の方から野口っあんと、久留米の佐田さんがお話をする様になっとります。佐田さんは竹葉会。いわゆる若い嫁さん達の代表と言う訳なんですが、その事を親先生から言われてから何を話させて頂こうか思うたら。あまりにもその十年間になるそうです丁度信心を頂いて。十年になりますが、その十年間に頂いておるおかげというものがですね、あまりにも頂いてもうどれも是も聞いて貰たい。
話したい話しばかりでもう纏め様がない程で御座いますけれども、まあ簡単に纏めて見ましたから、私は読んで下さいと思うとった所が、聞いて下さいだったんです。原稿出しなさりゃいいのに見せて貰ましょうって言ったら、いいや私が今から話しますから聞いて下さいって言う訳なんです。たらちょうど久富先生昨日息子が、呼び来とりましたから、ちょっと一足早く帰られましたから繁雄さんが一人残っとりました。
ほんで佐田さんたち夫婦と繁雄さんと私4人でまあ佐田さんの奥さんの、話を聞かせて貰ったんです。たらもうほんとにその何と申しましょうかねその、もう実にリアルなお話しなんですね細かいお話しなんです。それで私聞き終わってからその私がそれを聞き終わってからその通りの話をですね、私ならかく話すと言うてまたあの佐田さんが話された話をまた、私がそのまま同じ意味の事をですね私流にお話しをさせて頂いた。
肉を付けたり又は取ったりと言う訳で御座いますけれども、はぁほんと先生同じ一つの表現でも、こういう成程この信心というのは。もう十年間なら十年間に頂いたおかげを、こうこう山って言うのが、御座いますけれども、その中に神様はこういう時には、こう言う物を分からせ下さろうとした。こういう時にはこう言う物を、悟らせて下さったという、そこん所が話しの要点に、ならなければ駄目なんですね。
もうどんなに、福岡病院に入院してこんなおかげ頂いた事を。お医者さんがこう言いなさった事から、ああ言いなさった事までですね、厳密になれば成程それは分かっておる私は、成程詳しく良いお話ですけれども、なら今度は皆に分かって貰う為には、まあなんとも面倒くさい、お話しだろうかになってしまう。ですから、この時にはこう言う事を、分からせて下さったと言う事が。
この焦点でその話しをこうなされて行くと、時間も短縮するだけじゃなくて、分かりやすいですね。しかも、なら合楽の信心をこう浮き彫りした様に話す事が出来る。だから、是は私が言うた通りに話さんならん、と言う事はないのだけれどもまあ一つの参考として。何故かって同じ意味なんだから、同じ言葉なんだから。けれどもこう言う様な事に、なるのじゃないかねって言うてまあお話した事です。
そん時に私があの御心眼に頂きます事がね、あの昔のプロマイドですかね。あのお芝居なんかには、必ずその版画が盛んな時分は、その役者の似顔絵っていうものを書きました。特に豊国描きなんかの、皆さんよく御覧になるでしょう。あの錦絵って言うのですねぇ。その錦絵を見てみると、その場面場面がその絵に表れておるのですけども、何か絵として見ると何かこう変な絵ですよね。
あぁ変なこう目玉むいた様な、手でもこうおきあげの様なこの書き方してあるんです。あれでいてけれどもお芝居の雰囲気が、きっちり出ているでしょうが。又はその役者の、個性というものを、上手に捉えて御座いますでしょうが。そして、是は何の芝居のどういう場面だと言う事が分かる様に、描いて御座いますでしょうが。それを小さい言わば、髪一本一本からこう書いたら。
写実的な絵よりもむしろあの版画的な、あのいわゆる豊国描くあたりの絵のほうがどのくらい、雰囲気もありゃまた、錦絵としての素晴らしさが、そこにある様にですね、そう言うような、そのものがですね。私共の信心生活の上に日々、まあ書き上げられていかなければ、いけんと言う風に私感じました。一日なら一日というものをフット振り替えらせて頂いて、今日こういう事もあったああいう事もあった。
ならこういう事の中には、ああいう事の中にはここのところを悟らせて貰、ここんところでは、こう言う事を、分からせて頂いたと。そこんところだけはです、私はこの絵に書き上げて行く様な、日記風のものがいるのではないだろうかと私は思う。日々そういうお話の中にでしたが、んとにあの生きた神様の働きを身近に感じるという、ところでお茶を酌みながら、繁雄さんが話しておりました。
もうほんとに神様を身近に感じる、と言う事は分かっておっておる様であって分かっていない4,5日前でした。家内が私に地下足袋を買うて来てくれました。それはあぁたもう、むかしのもう地下足袋だそうです。今のとは違うそうですね。ですから格好も悪いし勿論値段が安かったろうけれども、お前へこげなもんばっかり買うて来てから、もうこげなんもんが履かれるもんか、っち言うてからまあ口上言うて履いた。
ところが大きいのにですね、足をくうてからもう足がもう、その晩にこんなに腫れ上がる様になった。とうとうそのあくる日は、そのみっ指足袋履かれずに、片一方はみっ指足袋履いて、片一方は裸足でその、取上げをさせて貰うた。その中にほんとにもう、私じゃろうかと言う事を思うたとこう言うのですね。成程その家内が、まあ安かつからと言うて買うて来たのであろうと言う、からと言うて買うて来たのであろうが。
そのそういう、地下足袋をですね、私がもうこげなもんばっかり買うて来てから、と不平不足言うてから、履かせて頂いたと云う事がですね。取りも直さず神様にご無礼であった。家内は折角買うて来てくれたのに、いったと思うたもんですから、ほんな事昨日あげな事言うたけん、俺りゃばちかぶったじゃろうっち言うてから又その事をお詫びしながら、履かして貰うた。
そしたらもう先生もう足くうたんじゃありません。もうほんとに何というですかね、もう履き心地の良いそのみつ足袋一晩の内に、そのみつ足袋が変わった訳じゃないのです。そこに生きた神様を感じますと言うて、話しておられますですから2、3日なら2、3日のそのみつ指足袋ひとつ履かせて頂いてからの、体験の中にその一口のお話し中に一つの、おきあげ風の絵が書き上げられおる様な感じが致しますでしょうが。
そして神様はそのみつ足袋を買うて来て下さった、家内を通して買うて来て下さった事によって、何を分からせ様となさったかと言う事を、繁雄さんはぽっと掴んでおられる訳なんですね。それは成程又次に失敗をする訳で御座いますけれどもです、そういう失敗が重なって行く内にです成程神様のなさる事には、無駄がないと言った様な事が愈々自分の物になって来る時に、信心が愈々ほんとの物に成って来るのですよ。
一日の内にでもです、例えば一日の事をずぅっと、なら日記なら日記に書くというのではなくて、その例えば山であり、要点であると言う所を、まあ書くなら書く。絵なりにするでもその歌舞伎絵の、それの様にちょっと見た目には、おかしな絵の様であるけれども。それでいてお芝居の、言わばその素晴らしい、お芝居の歌舞伎の魅力と言った様な物が、あの絵に盛り上げられておるですね。
皆さん豊国描きなんかって絵を見ると、おかしな絵なんですけれどもその個性が生かせてある。どういう舞台面である事も分かるねぇ。どういうそのすじの芝居の絵を描いたと言う事が一目で分かる様な描き方っていうのがある。日記を書くからと言って一日の事をずぅっと、朝起きて顔を洗うてと言う様な事からそれは事実だけれども、それを書いたんでは、返ってその日記の日記としての値打ちが無い様なもの。
佐田さんに昨日、お話を聞かせて貰又させて貰、又その繁雄さんの、言うならおかげ話と言うても、いかに生きた神様を、自分の心一つで表し、それを右左自由自在に、出す事が出来ると言う様な事をです、もうちょっとした、お話の中に、まあ表現しておられる、そう言う様なものをです、私共蓄積していきたいと思う。ねぇ。どうでしょうか皆さん、一日、今日もおかげ頂きまして有難う御座いましたが。
なら今日はどげん所をおかげ頂きました、有難かったのか。と言うことを一口に表現出来る。はぁ今日のあのおかげの中にはおかげを頂いただけじゃつまらん、前の日はこんなに足が腫れたのにあくる日は全然腫れなかった。ほんとにこげなおかげを頂いただけでは詰らん。けれどもその中に神意を悟らせて貰う。信心の一つの山場とでも申しましょうかね。分からせて頂く所を分からせて貰うた。
そこんところを、私は頂いていく稽古。そこに私は日々楽しい信心の稽古、信心生活が出来ると思うのですよ。漠然として今日もおかげ頂きまして有難う御座いましたがです、何か一口に纏められる様なですね、信心をさせて貰う一口に纏められる様な、はぁ神様は今日はこの事をこの事によって分からせて下さったと言った様な事がです、私いよいよ信心が、血になり肉になっていくとじゃなかろうかと言う風に感じましたですね。
どうそ。